- - - パントマイムの歴史 |
■ パントマイムの黎明期
パントマイムの歴史は、ギリシャ・ローマ時代に始まると言われています。日本の縄文時代の頃ですね。 (※ギリシャ・ローマ以外の地域でもおそらくパントマイム的な演芸は行われていたと考えられます。たとえば、中国の少数民族の中に2000年の伝統を誇る仮面劇がある、というのを聞いたことがあります。ただ、手元に資料がないため、ここでは触れません。このページの「パントマイム」は西洋のそれを中心に説明します。) ギリシャ・ローマ時代のパントマイムは、演芸の出し物の一つとして始まったようです。マイムは単独で演じられたわけではなく、他の歌舞音曲の中の一つの演目として演じられました。 そういう見せ物小屋的な公演から、マイムはしだいに公的なフェスティバルでも演じられるようになっていきます。 ギリシャ・ローマ時代のパントマイムは、仮面を着けて、ナレーションや音楽に合わせて演じられることが多かったようです。 ただし、時代が進むに連れて、仮面を着けなくなったり、一人で複数のキャラクターを演じ分けるといったことが行われていきます。 |
■ コメディア・デラルテ しかし、ローマ帝国の衰退とともにマイムは歴史の陰に沈んでいきました。 おそらくは大道芸や旅芸人の芸として受け継がれていったと考えられています。いかんせん、記録としてはこの後しばらく空白の期間が続きます。 マイムが再び歴史に姿を見せるのは、中世は16世紀頃になります(ちなみに、日本では14-15世紀に能楽が盛り上がります。観阿弥、世阿弥が登場して能楽が完成したとされるのが、室町時代の頃です)。 この時期にヨーロッパをにぎわした旅芸人一座にコメディア・デラルテ(Commedia dell'Arte)があります。ヨーロッパ全土で活躍したイタリアの道化芝居の一座です。 コメディア・デラルテの特徴として、
・・・などを挙げることができます。 基本的にセリフ劇なのですがヨーロッパ内の言葉の壁を乗り越えるため、パントマイム的な動きが随所に見られる芝居が演じられていました。 (詳しくは、別項の「コメディア・デラルテ」を参照してください。) コメディア・デラルテの影響はたいへん大きなものでした。特にフランスではその影響が大きく、「イタリア座」という劇場まで設立されました。文学では、モリエールがコメディア・デラルテの影響を受けた作品をいくつか残しています。 |
■ コメディア・デラルテの衰退、ドビュローの登場 18世紀頃からコメディア・デラルテはパワーを失っていきます(日本は江戸時代で、歌舞伎、人形浄瑠璃などが盛り上がっていた頃です)。フランスで大人気を博し、劇場まで設立されたのですが、それがフランス化を招き、即興性が奪われ骨抜きにされてしまったのです(イタリアと比べれば、フランスはやはり合理精神の国ですから)。 しかし、コメディア・デラルテの遺産を背に、独創的なパフォーマーが登場します。 その一人がドビュロー(Jean-Gaspard Deburau)です。ひょんなことから、ピエロの役を振られた彼は、大当たりを得ます。 18世紀末から19世紀初頭のフランスでは、芝居でセリフを発することが禁じられていました。劇場というのは、セリフの中に反政府的な要素を盛り込むなど、反体制派の巣になりやすい要素があったからです。(もっとも時勢によって、セリフが許可されたり、黙認されたりとケースバイケースだったようですが)。 ドビュローは軽業の旅芸人の息子で、フランスに落ち着くまではヨーロッパ中のあちこちを旅しています。あまりフランス語に長けていなかったドビュローですが、それがおそらくセリフをしゃべらないというスタイルにフィットしたのでしょう。 当時の知識人やジャーナリストの評価を得て、ドビュローは時代を代表するパフォーマーになりました。 最初はドビュローもドタバタが主体の芝居を演じていました。が、晩年の頃には、彼の演じる芝居には一種のロマンティシズムが存在するようになりました。・・・彼の演じた道化像「白塗りでゆったりした衣服、ちょっとぼけているけどロマンチスト」がピエロのイメージとして、今でも残っています。 ちなみに、映画『天井桟敷の人々』はドビュローの生涯をもとに作成された大作で、当時のパントマイム芝居などが再現されています。 |
■ 現代マイムの発展 このように変遷を遂げながら、道化芝居の流れを汲む芝居が演じ続けられてきましたが、それも19世紀後半には衰退していきました。進歩の時代にあって「パントマイムは古くさい」と思われるようになったんですね。再びマイムの空白期間が発生します。 その状況を変えたのが、ドゥクルー(Etienne Decroux)でした。* 1920年代にコポー(Jacques Copeau)という人が演劇学校を開きます。そこのカリキュラムの一つとして、マイムの動きなどコメディア・デラルテ的な要素が取り入れられました。 そこの生徒だったドゥクルーは、(もともと発声法を学ぼうとしていたのですが)、次第に身体の使い方や即興に目覚めていきます。 彼はどんどんどんどん、身体の動きを追求し、身体の使い方などの理論を組み立てていきます。「身体の動きを最大限活用して表現する」というのが彼の理想でした。・・・ただし、彼のパフォーマンス自体は残念ながら一般受けする内容にはならなかったようです。 しかし、現代のパントマイムで使用されるテクニックや身体の使い方の理論は、ドゥクルーのシステムに基づくものが大半です。 ドゥクルーと一緒に身体理論を研究していた人に、ジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)がいます。『天井桟敷の人々』の主役を演じたのがこの人です。しかし、彼はこの映画以降、パントマイミストとしてより役者/俳優として活躍していきます。 そして、ドゥクルーの生徒には、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)がいました。 パントマイムが世界的に一般化/大衆化したのは、彼の活躍あってこそです。 「ビップ」という名の白塗りで花を付けた帽子をかぶったキャラクターが有名です。彼のマイムは分かりやすく、そして面白く全世界的に人気を博しています。 そして現在、マルソーの後に続くパントマイミストや、マルソーとは全然異なるアプローチのパントマイミストが世界中で活躍しています。マルソー自身もまだ活躍しています。 パントマイムそのものも、デラルテのような素朴なものにとどまらず、言葉や道具を使ったり、舞踊に近いものや、形而上的なものもあったりと多様化しています。 −− マルソー以降、興味深い動きとして、マイムやコメディア・デラルテ的な要素を演劇や役者の基礎訓練とする動きがあります。パリのジャック・ルコック(Jacques Lecoq)が主催するルコック演劇学校がその最先鋒で、マイムをベースに舞台表現の幅を大きく広げたムメンシャンツのようなパフォーマンス・グループを輩出しています。 マイムやデラルテの即興性、セリフから身体の表現力の重視など、演劇全体のトレンドがややマイムの方向に近づいてきているのかな、と個人的に感じたりもしています。
※ちなみに、ドゥクルー以前に、デルサルテ(Francois Delsarte)という人が19世紀後半にジェスチャーの理論を体系的にまとめています。声が出なくなったのをきっかけに、人間の所作に注目した人です。コメディア・デラルテなどとはまったく違うところからマイム的なところへアプローチしたようです。ただ、そのせいもあってか、マイム関係からはどうも忘れられがちだったみたいです。Tony Montanaro氏の"Mime Spoken Here"にはかなりページが割かれていますが、それくらい。むしろダンス畑の人から注目されているような案配です。
この人の理論は面白そうなので、資料が手に入れば、そのうちまとめてみたいと思います。 (※ ・・で、洋書屋に問い合わせたのですが、とうに絶版で古書ルートでも見つからないとのこと。やれやれ) |
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