■パントマイムの歴史 - 2

・コメディア・デラルテの衰退、ドビュローの登場

18世紀頃からコメディア・デラルテはパワーを失っていきます(日本は江戸時代で、歌舞伎、人形浄瑠璃などが盛んだった頃です)。
フランスで大人気を博し、劇場まで設立されたのですが、それがフランス化を招き、即興性が奪われ、パワーの点では骨抜きにされてしまったのです。

しかし、コメディア・デラルテの遺産を背に、独創的なパフォーマーが登場します。

その一人がドビュロー(Jean-Gaspard Deburau)です。ひょんなことから、道化芝居でピエロの役を振られた彼は、大当たりを得ます。

18世紀末から19世紀初頭のフランスでは、芝居でセリフを発することが禁じられていた時期があります。劇場というのは、セリフの中に反政府的な要素を盛り込むなど、反体制派の巣になりやすい要素があったからです。(もっとも時勢によって、セリフが許可されたり、黙認されたりとケースバイケースだったようですが)。
ドビュローは軽業の旅芸人の息子で、フランスに落ち着くまではヨーロッパ中のあちこちを旅しています。あまりフランス語が得意でなかったドビュローですが、それがおそらく当時のセリフをしゃべらないスタイルにフィットしたのでしょう。
当時の知識人やジャーナリストの評価を得て、ドビュローは時代を代表するパフォーマーになりました。

最初はドビュローもドタバタが主体の芝居を演じていました。が、晩年の頃には、彼の演じる芝居には一種のロマンティシズムが存在するようになりました。・・・彼の演じた道化像「白塗りでゆったりした衣服、ちょっとぼけているけどロマンチスト」がピエロのイメージとして、今でも残っています。

ちなみに、映画『天井桟敷の人々』はドビュローの生涯をもとに作成された大作で、当時のパントマイム芝居などが再現されています。

・現代マイムの発展

このように変遷を遂げながら、道化芝居の流れを汲む芝居が演じ続けられてきましたが、それも19世紀後半には衰退していきました。進歩の時代にあって「パントマイムは古くさい」と思われるようになったんですね。再びパントマイムの空白期間が発生します。

その状況を変えたのが、ドゥクルー(Etienne Decroux)でした。
1920年代にコポー(Jacques Copeau)という人が演劇学校を開き、そこのカリキュラムの一つとして、マイムの動きなどコメディア・デラルテ的な要素が取り入れられました。
そこの生徒だったドゥクルーは、(もともと発声法を学ぼうとしていたのですが)、次第に身体の使い方や身体の表現力の豊かさに目覚めていきます。

彼はどんどん、身体の動きを追求し、身体の使い方などの理論を組み立てていきます。「身体の動きを最大限活用した表現」が彼の理想でした。・・・ただし、彼のパフォーマンス自体は残念ながら一般受けする内容にはならなかったようです。

しかし、現代のパントマイムで使用されるテクニックや身体の使い方の理論は、ドゥクルーのシステムに基づくものが大半です。

ドゥクルーと一緒に身体理論を研究していた人に、ジャン・ルイ・バロー(Jean-Louis Barrault)がいます。『天井桟敷の人々』の主役を演じたのがこの人です。しかし、彼はこの映画以降、パントマイミストとしてより役者/俳優として活躍していきます。

そして、ドゥクルーの生徒に、マルセル・マルソー(Marcel Marceau)がいました。
パントマイムが世界的に一般化/大衆化したのは、彼の活躍あってこそです。
「ビップ」という名の白塗りで花を付けた帽子をかぶったキャラクターが有名です。彼のパントマイムは分かりやすく、そして面白く全世界的に人気を博しています。

そして現在、マルソーの後に続くパントマイミストや、マルソーとは全然異なるアプローチのパントマイミストが世界中で活躍しています。マルソー自身もまだ活躍しています。
パントマイムそのものも、コメディア・デラルテのような素朴なものにとどまらず、言葉や道具を使ったり、舞踊に近いものや、抽象的なものもあったりと多様化しています。

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マルソー以降、興味深い動きとして、マイムやコメディア・デラルテ的な要素を演劇や役者の基礎訓練とする動きがあります。パリのジャック・ルコック(Jacques Lecoq)が主催するルコック演劇学校がその最先鋒で、パントマイムをベースに舞台表現の幅を大きく広げたムメンシャンツのようなパフォーマンス・グループを輩出しています。

また、最近の演劇全体のトレンドが、パントマイムやコメディア・デラルテの即興性を採用、セリフより身体の表現力を重視など、ややマイム的な方向に近づいているかな、と個人的に感じたりもしています。

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